うつ病生活保護受給者のミニマルライフ

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メンヘラナマポおじさんの健康で文化的な最低限度の生活

金子由紀子著「暮らしのさじ加減 ていねいでゆっくりな自分にちょうどいい生活」を読みました

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金子由紀子さんの「暮らしのさじ加減 ていねいでゆっくりな自分にちょうどいい生活」を読みました。

引用レビューしていきます。

 

 何があっても大丈夫でいたい

 「勝ち組負け組」だの「格差社会」だの、余裕でアハハと流しているつもりでも、気づくと聞き耳を立てているのは、やっぱり未来が不安だから。

 だけど、起こらないかもしれない不安に、大切な「今」を費やすのはもったいない。

 だいたいのことは、何とかなる。

 何があっても大丈夫。

 そう思える自分でいるためには、今、ここにいる自分を否定しないことだ。

 今いる自分が本当の自分。

 それ以上でもそれ以下でもないのだ、と。 

 

モノはなければないほどいいのか?

 「起きて半畳、寝て一畳、天下取っても二合半」

 起きているときに人が占める面積は半畳、寝てる時は一畳、酒は二合半も飲めば、天下を取った心地になれる。人が必要とするモノなんて、本当はごく少ないのだーということを、昔の人はこう表現した。

(中略)

 「旅するように暮らす」

 「日々旅にして旅を棲とす」

 なんて言うかっこいいフレーズは、凡人の私にはリアリティがなかった。取材が終わり、決してホテルのような小ざっぱりしてはいない自宅に戻り、見慣れたモノたちに囲まれると、体中の細胞がふぁーっと緩み、リラックスするのを感じたものだった。

 モノがなくても暮らせるし、それが心地いのは確かだが、やっぱりそれは本当の暮らしではない。暮らしにはどうしたって、雑多なモノが集まり、滞留する。モノは住む人と外界の間の緩衝剤、クッションの役割も果たしているのだ。

 でも、いざとなれば、モノはなくても暮らせる、なくても全然困らない、ということを知っていれば、モノに支配された不自由さはなくなる。いつ何を捨てても困らない自信がつく。

 モノをずいぶん減らした今でも、日々垢のように、脂肪のように、モノは暮らしにへばりついてくる。それをはがし、はがし、

「あのさわやかな夏の日よ、もう一度!」

 と懐かしむ私なのだ。 

 

モノは自分を表す分身

 モノに執着するのは愚かなこと、モノにこだわるのははしたないこと。

 そう思うこと自体は、なかなか殊勝な、無欲活淡とした考え方に見えるかもしれない。

 だけど、実際にモノと対すれば、私だって慎重に選んでいる。

 例えば、

 曲線よりは直線を、

 暖色よりは寒色を、

 化繊よりは天然素材を、

 新しいモノよりは古いモノを。

 こだわらないと言いながら選んでいるのは、自分の心がそういう形や色を求めるから。選んだものに、自分の形が現れる。私亡き後のモノたちは、くっきりと私の姿が映っているのだろう。

 では、今私は、自分の暮らしを構成しているモノ=私、と判断されてもいいのだろうか?中にはずいぶんへんてこなモノもあり、恥ずかしいモノもある。 

 

無買日

 お金の特質のひとつは、「自分の代わりにやってくれる」ことだ。

 お金があれば、自分の嫌なことをしなくても済んだり、労力のかかることを代わりにやってもらえたりする。お金は、本来なら自分でできないようないろいろなことを可能にしてくれる便利なものだ。だからみんな欲しがる。私だって欲しい。

 一方でお金は「考える」ことや「楽しむ」ことまで、代わりにやってくれてしまう"危険"がある。

 だから、「お金を使わない」という縛りを与えられた時点で、その人の生きることの対するクリエイティビティが明らかになる。

 お金を書けないと何もできない、遊べないと言う人は、お金がなければ、人生の第一目的がお金を稼ぐことになってしまうし、あればあったで、お金を使うことでしか自分を表現できないことにもなりかねない。「自分がお金を払った物」=「自分らしさ」であると勘違いしている人は少なくない。

 反対に、お金がなくても楽しいことを次々に思いつける人なら、それは莫大な財産を持っているのと同じこと。代わりにやってもらわなくても平気、ということなのだから。 

 

今を生きるのは、難しいけれど

 子どもはよく"未来の象徴"のように言われるけど、実際の子供にとって時間とは、「今現在」だけだ。

 「あとでね』といくら言って聴かせたところで、犯しやおもちゃが目の前にあれば、この世の終わりとばかりに泣き叫んで欲しがり、しばらく前に会ったおばさんが、「大きくなったわねー」なんて顔をほころばせても、半年も昔のことなど覚えてはいない。

 でも、「今」しか理解できない子どもを、馬鹿だ哀れだとは、だれも思わない。大人はむしろ、その姿を見て羨ましく思う。過去を悔むこともなければ、未来を思い煩うこともなくて、良いなあと。

 大人の「今」には、やるべきことに対する心配と、やれなかったことへの後悔がぎっしり詰まっている。あれをやらなきゃ、これもやらなきゃ、あぁ、時間が足りない。頭の中は、いつも考えでいっぱい。

 子供のように、「今」しか考えないでいられたら、そりゃいいけど、大人はそういうわけにはいかないの!やることは、後から後から押し寄せるし、家事なんて幾らやってもきりがないし!と、私などはせかせかと忙しぶってしまいそう。

 でも、自分を振り返ってみると、忙しいと思っている割に、大したことはやっていない。「忙しい」の中身は、実は心配と後悔、つまり未来と過去ばっかりだったりして。 

 

持っていく荷物と置いていく荷物

 生きていく以上、一人暮らしであれ二人以上であれ、そこには「生活」が存在する。どんなにミニマムにしようとしても、食べて飲み、洗い、眠る基本的な設備と道具だけでも、実際は結構な量になる。街で見かけるホームレスの人たちも、大荷物を持っている。

 すべてを賃貸し、外注し、外食し、使い捨てていけば、モノを持たなくても済むかもしれない。でも、それでは「生存」であって「生活」ではない。「生存」を「生活」に変えてくれるのは、人が選び、愛着を持って使うモノたちなのだ。

 「モノは持たないのが一番良い」

 と言いきってしまうのは潔いいし、かっこいいけれど、モノを否定することは、生活も人生も否定してしまうことにつながる。

 だからと言って、過剰にモノを抱え込み、モノに振り回され、支配された人生は哀れだ。

 暮らしを楽しみ、人生を楽しめる人は、持つことと持たないこと、そのバランスをうまく取れる人なのだろう。

 それはとても難しくて、高度なこと。でも、自分なりにそのバランスを見つけられたら、良いなと思う。